ローズマリー
私の家は二つの個室、一つの居間の平屋建てに敷地の中に小屋が二つ、畑になりそうな、雑草庭がある。
すぐ隣の奥には大家さんの住む立派なんだけど、とても親近感の持てるお家がある。
私の家には、大家のお父さんやお母さんのせっかちにやゆったり歩く音、朝の畑やお庭仕事、咳払いやくしゃみの音が聞こえること、家でまきを燃やして入ってるんだよといってた風呂の湯気を含んだ木が燃えている香りが夕方になると風に乗ってやってくる。
なんとなく近くに人が住んでる家がある、ではなく、
人が生活することと太陽が一日かけて空を通り過ぎること、
が無理なく一緒に流れている家で、それが自分が住む家のすぐとなりに存在している感じにとても安心していた。
軽自動車がギリギリ二台すれ違える幅の道路があり、奥側は竹やぶになっていて、その手前には駐車するスペースと庭があり私の家に繋がる。
庭にはちょっと粘土質の土の上に色々な草が生えていて、前の住民が好きで植えたのか野生で繁殖したのか、どっちともつかない生え方でハーブが生えている。ただ自由に生き生きとしている植物とこの庭が、お家のこのゆるくてキランと光って、味わいのあるいい雰囲気を作るのに一役買っていることには、間違いない。
さらに何にも脈絡なくぽつりと生えているまたは生えてしまった低木になりつつあるローズマリーが、私はなんだか好きで仕方ない。道路ギリギリに生えて、枝の先は道路にはみ出し、自分の重さに耐えられなくなって、横倒れながら、太陽に向かってそこから真上に無理くり伸びようとしている姿。
このローズマリーの存在の仕方とそれに和みを感じたことを、心のなかでニコッとして、頭のなかの”ずっと大事にしたい感情と感覚のボックス”にポイっと仕舞った。今度、時が来たら、それとなく、開けて、誰かと共有することを楽しみにした。
まぁただ、私がいくら良くてもダメなことはいくらでもある。
このローズマリー、道路にはみ出していてよそ様の車傷つけるといけないから、どうにかしないとだね。
世間話の端っこにそんなことを漏らしていた大家さんが、ある日の朝、草刈りのついでに、ローズマリー枝を剪定し、雑草と一緒にこんもりと山を作っていた。
ちょうど休みだった私は、朝ご飯食べてぼーっとしていた頭をかるく切り替え、寝巻きの上に汚れてもいいジャンバーとジーパンを履き、ズタボロのニューバランスを履き駆け寄っていく。
大家さん、草刈りありがとうございますと心からお礼を言って、
すぐさま、頭のなかは無造作にかられていくローズマリーを救助することでいっぱいにした。さりげなく、そのこんもりした山からローズマリーと刈り取られた雑草を分け確保する。
このローズマリー、使いたいんです。と私。
大家のお母さんには、そうなのね、いや、道路にはみ出て危ないなと思ってたからね
と、剪定をバトンタッチしてくれた。そうして、私はローズマリーが道路にはみ出ないくらいにしたあと、日光が良く当たるように密集したところの枝も所々切ることにした。
いつも遠くから眺めるだけだったローズマリーを実際触って、どんな生え方をしているのかじっくり見る。今まではふわっといいなと思っていただけなのに、これはなんだか強く心惹きつけられて吸い寄せられるような感覚になってきた。
そんな愛でながら陶酔しながらローズマリーと戯れていて、気づいたら、玄関の前には剪定したローズマリーがもう一つ、低木のが生えてきたようなボリュームで積まれることになってしまっていた。
さて、少しやりすぎた、この量どうしよう。まあいいか。
とりあえず、すぐ考えるのをやめ、麻紐を持ってきて、何本かずつ枝を束にして、逆さまに家の中に吊るせるように括り、ドライローズマリーを作ることにした。
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