処暑
2016年の8月は週に三日は炎天下にパラソルで日陰を作って、お弁当屋さんの店番をしていた。
久しぶりに会う友達に焼けたねと、初めて会う人にはサーフィンやってるんですか?と聞かれるくらいの日焼けをし、
さっきゴクリと飲み込んだ水が、どうゆう風に体の中を巡って吸収され、どの瞬間汗になってるか(本当のところはどうかわからないが)を初めて実感した。
着ているワンピースはどんどん汗にまみれて、体にまとわりついた。
流行っているわけでもなく、すごく閑散としているわけでもない、この街とこのお弁当屋さんにお客さんは1日に多くて10組くらいで、お店番というそのままの言葉の意味で、そこに居さえすればいいのだった。
1日5時間勤務の間ただぼーっとすることができないので、読書に没頭しながら合間に接客し、おばちゃんと世間話をしたり沈黙したりながら賄いのお弁当を食ベ、過ごしていた。
お盆が過ぎ、8月後半に差し掛かったある日、
すごくわずかに灼熱の太陽のエネルギーがすこし離れ、
すごくわずかに冷たく乾燥した香りを含んだる風が肌をかすた、
確かな感覚で、秋に変わった。
1日の一番エネルギーが溢れる時間に直に自然の中にいると、毎日同じようで全く違うことが分かる。
ちょっと前まで、コンクリートジャングルのなかのマンションの一室と、大小様々な大きさのカフェの往復に生活を捧げていたから、すっかり鈍っていたんだな、暑いか寒いか、晴れか雨か、乾燥しているか湿気ているか。極端なことしか気にしていなかった。
あぁ、わたしは以前よりも自然に近しいところにいて、ずっと敏感に、感覚が澄んでききたんだな。
後からじわじわと、その秋に変わった日のことを気になり調べた。
中国から日本に伝わり江戸時代から使われている暦、
二十四節気(太陽が1年かけて地球の周りを移動する天空上の道筋を15度ごと24等分して、一年を約15日ずつ分けた季節のこと)というものがあるそうで。
そのなかで、秋を感じた8月23日頃は、処暑(しょしょ)といって、夏の暑さの峠を越して、秋の気配を感じる日とされている。
おぉ、合ってた。
今よりももっと生きることが自然と近しかった時、満ち欠けする月を見て、変わりゆく太陽の位置を見て、過ぎ行く季節を肌で感じ、刻んで。
ほんのわずかにガラッと変わるから、名前をつけたくなるのもわかる。処暑ね。処暑か。
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